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ゲッペルスの秘書と、原爆化学者リリーさんと、日本代表、長谷部のこと

岩波ホールで『ゲッペルスと私』を見た。 ナチス宣伝大臣ゲッペルスの女性秘書、ポムゼルさんのインタビューを軸にしたドキュメンタリーだ。 103歳の彼女は、ゲッペルスの宣伝効果がいかにプロパガンダとして、 ひいてはユダヤ人虐殺に有用だったかを、古い記憶を掘り起こしながら 正確に語っていた。 そして、自身について「自分ならあのとき止めることができたと言う現代の人は多いが、実際あの時代に生きていると それはとても無理だった。 そうするしかなかった。 私は国のために業務を必死に全うしただけ。 自分に罪はない。ドイツ国民全員に罪があると言うなら私にもある」 と語った。 その言葉は、一昨年、自著『届かなかった手紙』(角川書店)取材のため、 アメリカで会った女性原爆化学者リリーさんと、全く同じものだった。 「自分は任務に必死にとりくんだ。そうするしかなかった。罪悪感はない。それが戦争です」(リリーさん 96歳)。 話は飛躍するが、 ワールドカップのポーランド戦で、負け逃げの戦略をとり、監督の指令を忠実に選手に伝え、奮闘した長谷部キャプテンの統率力について 評価する記事をたくさん見た。 賛否ある中で、彼は全員をとりまとめ、忠実に監督の指令を実行したと。 その通りで異論はない。彼がどれだけの葛藤と苦悩と責任感の中で それを受け止め、実行したか。 私などが胸の内を想像することなどとうてきできないほどの重責のなかで、責務を全うしたのだろう。 また、ここで、その戦術の是非について、書きたいわけではない。 私は、非常時に、「国」という大義を背負った人が奮闘する様を 無防備に礼賛する流れについて、考えさせられたのである。 長谷部のリーダーシップという毅然とした美しい行為に 論点がすり替えられ、戦略の是非について論考を深めているメディアが 少なく感じられた。 賞賛することで、きっと見えなくなる本質がある。 木は見えても、森が見えなくなる。 突飛かも知れないが、私は、ふっと、こんなふうにして、正義感を持った「ふつうの」人たちが、戦争に荷担していったのではないかと 考えるに至った。 『自分のため』より、『国のため』という大義を背負うと、誠実な人ほど大きな正義感が働く。 そして、人々はそれを賞賛する。 もちろん、サッカーならそれでいい。 だが、たとえば戦争の構造というものを考えたとき そこに、抗いがたい精巧なシステムが仕掛けられていることに気づく。 ポムゼルさんもリリーさんも、いまはこの世にいない。 罪はないと言いながら、映画制作に協力したり、私の本の取材を受けてくれたのは 少なくとも、当事者である自分に「説明責任」があると思ったからだろう。 だからこそ90代、100代の老体をおして カメラの前に立ったにちがいない。 その姿勢に、心から敬意を表したい。 映画を見終えると、『届かなかった手紙』を書き終えたときのように、なんともいえない もどかしさが残ったことを付記しておく。

<追記> 約3000人のユダヤ人原爆化学者のうち、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下に反対を唱えた70名の 化学者がいる。 レオ・シラードを中心にした彼らの物語と、生存する署名化学者へのインタビューをまとめた 拙著『届かなかった手紙 原爆開発「マンハッタン計画」科学者たちの叫び』(角川書店)も、よろしければ是非ご覧下さい。

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