top of page

私の考える戦争の構造

昨年、アウシュヴィッツを訪れた友だちが言っていた。 収容所の看守や係員が、いかに罪の意識を感じずにユダヤ人を殺戮できたか。そのシステムが、見事というしかないほどよくできていて、驚いたと。 曰く、子どもにはシャワーを浴びるよと言い、最小限の恐怖で天に送った。最期に少しでもいい気持ちになれるよう、楽団に生演奏させた。きょうだいは一緒の収容所に入れた・・・etc。 その人たちは、ユダヤ人がせめて穏やかな気持ちで天に召されるようにと本気で願い、自分はいいことをしていると信じてやっていたに違いない。でないと、人は、14万もの人を殺し続けられないのではあるまいか。 不幸になろうと思って、戦争を始める人は、きっとこの世にひとりもいない。 原爆も、アメリカが、早くこの不毛な戦争を終わりにしようと落とした。 軍隊を持ち、核を持ち、友好国が攻撃されたら自らも立ち上がろうではないか。すべては平和のために。 改憲の動きは、そう真剣に考えている人が少なくないから、今、こいうことになっているのだろう。(利益が生まれるらしい難解な戦争の構造は知らないが) しかし、どんな理由であれ、戦争は殺し合いに違いない。その「業務」が伴わない軍隊などない。殺戮という大目的を忘れて、目の前の人の刹那の安らかな死に手をさしのべることをよしとした当時のアウシュビッツで働く末端労働者やSSたちの罪逃れを生む構造と、未来永劫の平和のために憲法を変えて軍隊を持つべきだという今の論調は、私には似て見える。 右傾化しよう、子どもを戦場に送りこもうなんて最初から思っている人はいないのだ。平和を考え、気づいたら改憲に賛成していた。そして、与えられた業務を遂行するために、気づいたらガス室のボタンを押しているかもしれない。そんな世の中になってはいけない。 私はふだん、ぬかみそくさい生活周りのことを書いている。そういう人間がこういうことを書くと、鼻につくという心情はわかる。しかし、アンネ・フランクの本の事件や、国民にとって非常に重要な問題が、「どうでしょうね?」という打診もなしに、どんどん決まっていきそうな今の世の中に、大きな怖れを感じるので書いてみた。ふ〜。

Comments


bottom of page